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ニチジョウ。

ニチジョウ。

歌姫の悲劇




きっと、近づいてはならなかった不可侵の領域。
誰にでもあるでしょう?
さわらないでほしいって言われてたのに、
見ないでほしいって言われてたのに、
心の中を見透かさないでって言われてたのに。

流れて落ちていった涙は乾いてもとに戻らないのと同じように。
口から飛び出してしまった言葉も、その罪も、消えない。

誰にでもあるでしょう?




「あら、どうしたのこんなところで」
 沼崎瞳はフェンスに手をかけたところで、後ろから女に声をかけられた。
 真夏の熱気が東京中にはびこる中、どこの町も暑さに対する苛立ちは同じだ。都心部は人が多く、機械やら車やらが無駄に多くてよけい暑い。
地上十二階、屋上。風はなく、あいにくの晴天。熱気は地上と変わらない――いや、人や排気ガスがないだけ涼しい方なのだろうか。しかし、これだけ暑かったらそんなささいな差は関係ない。ましてや日差しが強い分、地獄なのだろう。
「――高村さん」
 瞳が肩越しに振りかえって女――高村美樹の名前を呼んだ。
 高村は夏用のグレーのスーツ姿で、いかにもキャリアウーマンでございます、という感じだ。胸の前で組まれた腕に、軽くパーマのかかった肩口までの黒髪。鋭い目が嫌悪を表していた。
「屋上なんて危ないわよ。それに、大事な肌が焼けちゃうじゃない。あなたは色白美人ってことで売り出す予定なのよ。勝手なことはひかえてちょうだい?」
 瞳はそう言う高村の顔をじ、っと見つめたあと、哀しそうに視線をさげた。
「……もう、いいんです。お世話になりました」
 そう言いながら、ちいさくだがゆっくりと礼をする。礼をした拍子に、瞳の長くのびた、真っ黒でストレートな髪が肩をこえてこぼれた。
 ただでさえきつい高村の顔が険しくなり、さらに近寄りがたくなる。
「何? どういうことかしら?」
 コツ、コツ、と近づいてくる高村のヒールの音は空中で散った。
「もう、歌えません」
 きっぱりと、そう言い放った瞳の声はすんでいた。
 ぴ、と機械のように高村は歩みを止める。
「歌えない?」
「……はい」
「ちょっと、どういうことかしら? あなたのデビューはもう一週間後に迫っているのよ。生番組の収録だって入っているし、いくつかは撮影を終了して、オンエアーを待つだけなのよ? 今さら何言ってるの」
「……ごめんなさい、でも、もう続けられません」
 苦しそうな声でもしっかりと自分の目を見て話す瞳に、高村は少しだけ黙った。
 瞳と高村に沈黙が落ちる。
「……理由は? 理由もなしにやめさせることはできないわ」
 沈黙を破って、高村の語気がすこしやわらいだ。といってもまだ苛立っているようで顔は険しいままだが。
 瞳はつばをひとつ、ごくんと飲み込んでから、説明を始めた。


 ――それは昨日のことだった。
 瞳は疑問を抱いていた。他でもない歌に対して。
 歌うことは好きなままだった。昔から歌を歌えば誉められたし、おなかからのどへ、口から飛び出した歌声が自分の身体を包み込むような感覚はどうしようもないくらい好きだった。それは昔から変わらない。
 ただ、デビューするということで、自分の歌が商業的になってしまったのだ。
 歌う種類の制限。
 売れるか、売れないか。売れないようなものは歌として認めてもらえないし、売れないような歌い方も、歌い手として認めてもらえなかった。
 それでもプロデビューを希望したのは瞳の方だった。そんな制約さえも押しのけるような強い願望があったのだ。より多くの人に自分の歌を聞いてほしい。聞いて、涙を流したり笑顔になってくれたらどんなに嬉しいか。
 ちゃんと割り切った、つもりでいた。
 デビューがどんどん近づき、現実になっていく一方で、瞳は迷っていた。
 このまま、中途半端な想いでデビューしてしまっていいのだろうか。
 瞳はずいぶん迷った。夜を涙で埋め尽くさんばかりに泣いた。うめくように泣いた。歌った。叫び声もあげた。
 声が枯れて、空が白む頃。涼しい朝のにおいを感じながら、瞳は歌い続けた。涙はいつまでも止まらなかった。
 そして瞳は気づいたのだ。
 この枯れた声こそが答えなのだと。溢れたまま止まらない涙こそが答えなのだと。
 自分は、歌ってはいけない人間なのだと。
 


 ――そして、午後二時。今にいたる。

 瞳と高村の距離は四メートルほど離れている。ふたりきりで話をするには少し離れすぎだろう。しかし、高村も瞳も、向かい合っているだけで間を詰めようとはしない。
 地上を走り回る車のクラクションが響いてきた。その後に、いつも通りの騒がしい声。
「……どうしてそんなことでやめようと思うの? ここまで準備は整っているんだし。それに、あなたは一流になれるわ。もったいないわよ」
 高村が言う。その言葉に訴えかけるように答える瞳。
「私は、ちいさい人間です。一流になれるような才能は持ってないんです。それに、もう、歌えないんです」
 私の声は枯れてしまった。
 歌える声を失ってしまった。
 瞳はそれだけ言うと、また目を伏せてしまった。その目には涙はたまっていないが、よく見ると赤く腫れたまぶたが瞳の心境を物語っているようにも見える。
 不意に、高村がさっきまでとは違う尖った声をだしてきた。
「それで?」
 そんな声を予想もしていなかった瞳は思わず驚いて顔をあげた。
「え?」
「だから、それでどうしたのって聞いているの。あなたがちいさいのなんて鼻から承知なのよ。そりゃ確かに瞳なんかよりうまい人間はたくさんいるわ。たとえば――」
 そう言って高村は組んでいた腕の右手をはずし、その手で指折り何人かのアーティストの名前をあげていった。
 五本の指は軽々と埋まって、開いていた手はすぐに閉じる。
「他にもまだまだいるわ。うちの事務所の、瞳の先輩にだってたくさんいるしね。でも、あなたは格別顔がいい。モデル顔負けの顔をしているし、演技テストだって悪くなかった。売れるっていう理由があるのよ」
 さらさらと、夏独特のひかえめな風が瞳の髪の毛を何本かさらっていこうとする。
 その風の涼しさに、瞳は寒気がした。その風の奇妙な涼しさは、目の前にいる高村の――季節はずれな顔つきと似ているからだ。
「そんな、理由……」
 瞳は身体から血液がすべてなくなったような感覚で、頭がくらくらした。高村の顔をよく見ることができない。がやがやうるさく聞こえつづけていたはずの喧噪も、瞳の耳にははるか遠い所の音に聞こえていた。
「確かに瞳は歌はうまい方だわ。歌だけでもそれなりに売れたかもしれない。でもね、芸能界っていうのは可能性があるならぜんぶ――」
「……うまくなんて、ないです……っ」
 瞳は“うまい”という言葉に反応して高村の声をさえぎった。少し遅れたのは、発言の邪魔をしていいかどうか迷ったからだ。瞳は泣きそうな目で、高村を見た。
 その顔を見て、高村はそれまでのつり目をやめて優しく微笑んだ。微笑んだかと思うと、一瞬にしてそれまで以上に恐い表情で瞳を睨んだ。
「いつまで自分のこと否定し続ける気なのよ。あなたはそこそこは実力あるって言ってるでしょう。それぐらい認めたら? 本当は嬉しいんでしょう? 無理しないでよ。話しててうざったいのよ、あんたみたいな女」
 突然するどくなった口調。それまでは商売用の話し言葉と、苛立ちが混じりながらもなぐさめるような声で話していたのだが、今となってはそんな面影もない。
 若者語で言うなら、“キレた”状況だ。
 その高村の声と、顔に、瞳は驚いて声もでない。
 高村が腕を組みながら、こつ、と一歩瞳に近づく。そしてまた一歩。高村はゆっくりと瞳に近づきながら喋り続けた。
「あなたはしょせん否定し返してほしいだけでしょう? 否定に否定を重ねて、肯定に変えてもらいたいだけでしょう? 自分の実力を否定して、それを肯定に変えてもらいたいんでしょう?」
「……違う」
 ちいさな声で。今にも消え入りそうな声で、のどを震わせながら言う。
「違くないわ。事実よ」
「違う!」
 かつんと、ヒールの音と共に、機械的なまでにぴた、っと高村が止まる。その表情がゆっくりと変化した。
うっすらと黒く染まったような、笑みに。
「違うだなんて証拠なんかどこにもないのに?」
 しゃらん、と、瞳の頭の中で音がした。何かが、高い音をだしながら散らばっていった。
 ――証拠?
 瞳のその顔を見て、高村の顔が氷の花のように歪む。真夏の世界とぜんぜん噛み合わない花。まるで黒い薔薇のような。
「あなたは否定してくれることを望んでいるだけよ。本心では実力がないこともわかっているし、本当に自分が悪いとも思ってないの。ただ、気づかないフリをしているだけなのよ。それとも悲劇のヒロイン気取りかしら? 事務所や“客”が悪いんだ、自分はどん底に落とされたヒロインなのよ――なんて思ってる? ばかばかしいわ。人間、誰しも自分が一番なのよ。あなたは自分のために私に謝っているの」
 高村の容赦ない言葉に、瞳の口が震える。目は怒りと拒絶で大きく見開かれ、もう何も見えてないような視線だ。
「なにかしら? まだ、否定する気? あなたってばかね。ずっと言われるがままにしていればそこそこ売れたものを、自ら断ち切ろうとするなんて。本当、失望したわ」
 高村は言い終えると同時に大げさなアクションでため息をはいた。
「悲劇のヒロインはもう中古なのよ。売れない商品なんて、要らないわ」
 高村がそう言い終えた瞬間に、事務所の周りに女の甲高い、悲鳴のような叫び声が響いた。けれども、地面は車や雑踏でうるさく、その声を聞き取れた人間は、極わずかだった。



「高村ぁ、おまえまたやっただろ」
「何が?」
 電気が消えて残業モードになった事務所内はやけに静かだった。明かりは背中合わせで電源が入ったままのパソコンが二つと、外からの街灯のみ。それでも、ふたりだけで仕事をするくらいなら十分の明かりだった。
 背中合わせのパソコンとは逆に、向かい合わせに残業なのは高村とその同僚の長井俊光だった。長井の方は仕事に飽きたのか、新聞を広げていて高村から顔が見えないので向かい合わせと言えるのかどうかわからないが。
「沼崎瞳ちゃん。俺結構好みだったんだけどなあ」
 そう言って、読んでいた面を裏返して高村に見せる長井。
 見せた部分には、瞳の美しい顔が大きく映っていた。雑誌の取材で撮った中の一番だ。
「ああ、その子。まあ美人だったしね、ご愁傷様。っていうかあんたみたいなの職権乱用っていうのよ。めぼしい子みーんなあんたが食べちゃったでしょ」
「ああなんだ知ってるの? でも本当可哀想だよなぁ」
 長井ががさりとがさりと音を立てながら新聞を折りたたむ。
「いいじゃない別に。ちょっと警察がやっかいだけど、その分、マスコミが大きく取り上げてくれるから売れるわよ。普段買わないような人でも買ってくれるわ。なんのためにデビュー曲を哀しいバラードにしたんだと思うの?」
ぽさ、っと、折りたたんだ新聞を隣の椅子に放る。
「……最初っからそういう目的だったのかよ」
 長井が苦笑して言った。
 高村はそれには答えず、いたずらをする子供のような顔でにんまりと笑う。そしてサンタクロースからプレゼントが来た時と同じくらい嬉しそうに声をだした。
「ねえ、それより新しい子見つけたの。絶対あの子は売れるわよ」





【○○事務所からデビュー予定だったはずの沼崎瞳さん(19)が、二十三日の午後三時、事務所の屋上から飛び降り、病院に搬送された後に死亡。マネージャーだった高村美樹さん(29)は、デビュー前の不安に苦しんでいたのに気づいてあげられなかった自分に腹が立つ、と涙を流しながら語った。警察側では、自殺と事故の両方を視野に入れて捜査している。】



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